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2005年 04月 25日
賛否両論あるとは思いますが・・・。
劇団☆新感線のお芝居は一度見てみたいと思っていたのですが、映像化されたものも見る機会がなかったので、今回の映画化は楽しみでした。 この作品も予備知識がないぶん映画として素直に面白かったです。 市川染五郎、好きでも嫌いでもなかったけど、こういう役柄は実にハマってますねぇ。 宮沢りえ、さすがに年は重ねたな、という感じだけれど、でもかわいいんですよねー。 他のキャスティングも良い(特に渡部さん)。 そしてスタッフが非常に私好みなのです。 滝田洋二郎監督。この方の撮る時代物はどうやらツボです。 陰陽師シリーズ、壬生義士伝ときて、これですよ。 ちょっとB級じゃない?というところも許せます(それにしても今回のCGは安っぽい・・・)。 アクション監督が諸鍛冶裕太さん。この方の殺陣のキマリっぷりがすごく好みです。 でも今回は映像が“さかしま”になってたりして殺陣に集中できないところもありました。 見ていて少々酔った(笑)。 音楽は菅野よう子さん。ひたすらカッコイイ・・・。 ただ、宮沢りえとか演技すごく良いのだから、映像加工しなくても生身の演技で、人から鬼の王への変化とか表現できたのでは。ちょっともったいない気がしました。 でもまぁその荒唐無稽さが面白い! 舞台版からそうなのか映画オリジナルの設定なのかよくわからなかったのですが、無国籍なセットおよび映像にはワクワクしました。 深く考えずに、その世界観を楽しむ映画だな、と思いました。 ▲
by cygne73_76
| 2005-04-25 23:23
| 映画のキロク
2005年 04月 25日
京極夏彦さんの妖怪シリーズを読み続けているのですが・・・。
そういえば今頃、あの人は何をしているだろう? そう考えることって、誰にでも一度や二度はあるのではないでしょうか。 私は日常の忙しなさからふと解放される一瞬なんかに、よくそんなことを考えてしまいます。 それは知人に限らず、全く見知らぬ人の人生についても。 例えば信号待ちの車内で。偶然隣に止まった車の、運転席に座る人。 今、私とその人は同じ交差点で信号が変わるのを待っているけれど、私が直進し、その人が左折するその後、その人はどんな場面に遭遇し、何を思うのだろう。 何でこんなこと言い出したかというと、京極夏彦さんの小説における時間軸というものの扱いがあまりにも巧みだからです。 登場人物たちは皆、当たり前に自分の人生を生きている。 そして様々な事を経験し、自分なりの感じ方、考え方で物事を捉えていく。 読み手は当然、登場人物全ての日常を追体験している。 それなのに、その時間軸が京極堂によって一つにまとめ上げられ、一見無関係に思えていた事柄が関連性を持って見えてくる時のあざやかさはどうだろう。 もちろんマニアックで難解でまわりくどいとも思える京極堂の解説は、読み進めるのにも少し骨が折れるのだけれど。 私は女優でもなければイタコでもないので(ちょっと違うか?)、自分以外の人生を生きたり、他人の思いを共有したりすることは、本当の意味ではできない。 そんな凡人の私が唯一、非日常的なことを体験できる、その手段が読書なのですねぇ。 でも哀しいかな平凡な私が感情移入してしまうのは全てお見通しの京極堂でも、超探偵の榎木津でもなく、どこまでも情けない役回りの、関口センセイだったりするのですが・・・。 ▲
by cygne73_76
| 2005-04-25 03:56
| 読書のキロク
2005年 04月 23日
原作を読んだのは、ずいぶん昔のこと。
小池真理子さんのエッセイに「映画は恋の教科書」(講談社文庫)というのがありまして、好きな役者さんを一人ずつ取り上げて、感想を述べたものです。 原作を読んだ時から映画も見てみたいと思って、何となくそのままになっていた「幻の光」についての記述があって、それで見てみました。 この作品は、「誰も知らない」で話題になった是枝裕和監督の、’95年の初監督作。 もう10年も経ってるんですねー。 夫と、生まれたばかりの子供と3人で、ささやかながら幸せに暮らしていたユミコを突然襲う、夫の自殺。振り返りもせずに線路を歩き続けて、電車にはねられた夫。 なぜ?という思いをいだいたまま時は過ぎ、ユミコは奥能登へと嫁ぐ。 やはり前の妻に先立たれた夫とその娘。自分と息子。そして夫の父。 穏やかな生活になじんでいるようでいて、拭い去ることのできない喪失感を抱えるユミコ。 原作を読んだ時に感じた、身近な人の死、深い喪失感にもかかわらず、それでも生きている、ということの生々しさのようなものは、映画ではずいぶんと薄れている。 原作が一人称だったのに比べ、映画では語りが全くなく、セリフも少ないからかもしれない。 奥能登の風景が美しい。 その中で、喪服のような黒を着続けるユミコがくっきりと浮かび上がる。 前夫の事を考え続けて家を出、葬列を追って海へと向かうユミコ。 心の底まで冷えていくような喪失感と孤独が、痛いほど胸を打つ。 追ってきた夫に、何故あの人は死んでしまったのだろう、と問いかける。 海に誘われるのだ、と答える夫。沖のほうにきれいな光が見えて、それに誘われる。 「誰にでも、そういうことあるんちゃうか」と。 初めて本当の夫婦になったのだなぁ、と思った。 心の奥に澱んでいた思いを打ち明けて、怒るでも切り捨てるでもなく、一すじの光となるような答えをくれた夫に、ついて行こうと思ったのだろうなぁ。 ユミコを演じたのは江角マキコさん。夫は内藤剛志さん(この方好きですねぇ)。 あと子役の演技がとてもかわいいです。 奥能登の景色の中で遊ぶ、姉と弟になった二人が、とても自然でいい。 子供を撮るのが上手い監督さんなのですね。 ▲
by cygne73_76
| 2005-04-23 12:24
| 映画のキロク
2005年 04月 19日
今さらですが。映画化を前に読みました。
昨日は休日出勤的な仕事を一時間程したあと、書店へ。 この本は以前、読めないタイトルや、直木賞作家、ということにひかれて何度か手に取ったのですが、その時はあまりこのテのジャンルに興味がわかず、読みそびれていたものでした。 映画の制作発表で主演の堤真一さんがあの衣装を着てる映像。 その雰囲気が面白そうで、公開されたら見たいなぁとは思ってたのですが、原作は映画見てからでもいいかなと。 それが今日、“映画化決定!”なんていうオビを纏って並べられてると無性に読みたくなって。 ちょっと生活感からかけ離れたところで読みたかった。 日暮れまでの一時間程度、と、あまり人の訪れない郷土資料館のパーキングエリアに車を停め、冬枯れたままの芝や(北国の春はまだ遠い・・・)資料館の建物を前に読み始めました。 冒頭からいきなり世界観にどっぷりハマる。 夢中で読みふけるうちにあたりは薄暗くなって、字が読みとり辛くなり、ようやく帰宅。 普段見慣れた家までの道が、不思議な感覚をともなって見えました。 黄昏時、という時間のせいでもあったのでしょうか。 今目に映るこの景色ははたして現実だろうか?仮想現実でないと誰が言えるだろう? 日常の中に隠された非日常。当たり前に見えている現実が孕む、見えない何か。 自分の脳、自分の認識というものを疑いたくなってくる。 読み進むうちにその思いはますます強くなりながらも、最後まで一気に読み終えました。 個性的なキャラクターと、緻密に組み上げられた時間軸。ものすごく引き込まれますね。 これだけのボリュームある話をどう映画としてまとめあげるのか。 ますます楽しみです。→姑獲鳥の夏HP ▲
by cygne73_76
| 2005-04-19 00:34
| 読書のキロク
2005年 04月 16日
ブノワ・マジメル見たさだったのが、やはり女優さんに圧倒される。
ジョルジュ・サンドという女性は、作曲家ショパンに関わった女性という知識しかなかったのですが、この映画はショパンと出会う以前のサンドを描いています。 夫と別れて出てきたパリで自立して歩み始めたサンドと、作家ミュッセとの激しい恋。 こういう恋愛ができるって一種の才能のような気がする。 ただすごく好きで、なんてものじゃなくて、愛も憎しみも同時に吹き上げてくるようなものがないと、“激しい恋”とは言えないのだろうなぁ。 サンドを演じたジュリエット・ビノシュと、ブノワ・マジメルは実際に恋に落ちたというけれど、映画を見るとそれもうなずけますね。 サンドとミュッセのあの人生を体験してしまったのだから。 互いの醜さもエゴもさらけ出した末に不幸な結末が待っていたけれど、サンドは最後に言う。 「真実の愛は一度しかない。私にとっては彼だった」と。 ミュッセの後に出逢ったショパンも結局は年下の、精神的に弱いところのある、芸術家だったわけで、サンドはショパンに、ミュッセの影を見ていたのかもしれない、なんて思ったりしました。 まぁこの映画と史実は少し違っているようなので、現実は全く別かもしれないですが・・・。 久々に見応えのある映画を見たと思えた作品でした。 ▲
by cygne73_76
| 2005-04-16 01:08
| 映画のキロク
2005年 04月 14日
昨日見た映画とは全然違う意味合いでゾッとした。
「クリムゾン・リバー2」に出てたブノワ・マジメルが見たくてレンタルしてみた。 感想は・・・う~ん、なんだか痛々しくて見るのが辛くなった。 何て言ったらいいのかなぁ・・・こんなに言葉が浮かんでこない映画も珍しい。 嫌い、とかつまらない、ではない。でもものすごく重~い気分にさせられる。 不自由な女。 自分を縛りつける母親を憎んでいるようでいて、本当は自分が臆病で踏み出せなかっただけ。 音楽にしか興味がない、感情を持たない、そんなふりをして、本当は人一倍根深く暗い欲望に支配されている。 他人と深く関わろうとしてこなかっただけに、恋愛しようにも接し方すらわからず、ただ自分の身勝手な感情を押し付けてしまう、精神的には子供な女。 イタイなぁ・・・。 見てられない、とまで思ってしまうのは、もしかして自分にも思い当たるフシがあるからかも。 ここまで破滅的にはなれないけど、女、という性だけが持つ後ろ暗さというか、本性というか。 なんかもうそういうのがむきだしになりすぎててダメでした、私には。 全てを語らないストーリーと映像。それでいて本質を鋭くえぐる感じ。 非常にフランス映画らしいのだろうとは思います。 ▲
by cygne73_76
| 2005-04-14 23:44
| 映画のキロク
2005年 04月 14日
曇天の下、時は流れる。
とにかく全編を通して、曇り空が印象的。 子供たちの遊ぶのどかな農村の風景の中に明らかに異質な、猟奇殺人被害者の遺体。 雨の夜には、殺人が起きる。 曇った空は次の事件を予測させる不吉さがあって、この種の映画としては正解という感じ。 韓国映画は恋愛ものしか見たことなかったので、こういうサスペンスは新鮮でした。 主演のソン・ガンホ、名優と言われる方なのですね。前半と後半で顔つきが全く違う。 あともう一人、刑事役のキム・サンギョン、角度や映りによって佐藤浩市さんとか別所哲也さんとか、伊原剛志さんにも似てる気がする。この方の演技も良かった。 ストーリー展開も、二転三転してなかなか真犯人に辿り着かないことが、次はどうなるんだろう?と思わせて引きつけられる。 それと音楽は、日本から岩代太郎さんが起用されています。 この方のメロディーが、韓国の空と原野にとてもなじんでいるのも興味深い。 ラスト、時が流れ、全て忘れて日常に埋没する元刑事に、本当に偶然突きつけられた事実。 事件は終わっていない、と、解決できなかった彼を嘲笑うかのように。 女性なら誰でも被害者となり得た、この無差別猟奇殺人。 特典映像にあった劇場予告に、 「この事件の犯人は捕まっていない」と出た時は、ちょっとゾクッとさせられた。 ▲
by cygne73_76
| 2005-04-14 03:28
| 映画のキロク
2005年 04月 10日
今、サントリー「伊右衛門」のHPで、京都旅行が当たるキャンペーンやってますね(27日までですが)。
行きたいです、京都。桜の季節はいいですね。 数年前、家族で京都に行ったのも、ちょうどこの時期。 「一生ぶんの桜を見たね」なんて言い合ったほどキレイな景色でした。 けれど景色以上にこの旅を忘れがたいものにしたのは、清水寺周辺でのある出来事。 駐車場にレンタカーを止め、清水寺に参った後、坂の途中でお土産を買った私たち。 帰りがけ、自分のもの何も買わなかった、と言う母に、何か旅の記念になるものを買ってあげようと店に入った私は、後ろから父母がついて来てないのに気がつきました。 でも駐車場は目と鼻の先。車に行って待っているのだろうと、買い物をしてから後を追ったのですが、車に二人の姿がない。 駐車場内をくまなく探してもいない、となった時にはさすがに焦りました。 大の大人二人。迷うべくもない目立つ駐車場です。 清水寺まで急いで戻って呼び出しかけてもらっても来ないし、ホテルにも戻ってない。 悪い想像ばかりが膨らんで泣きそうになったその時、ケータイに着信が・・・。 なんと母は、道の左側にある広々した駐車場には目もくれず、右側ばかりを見て坂をどんどん下りてしまったらしいのです!普通いないですそんな人! 母が極度の方向音痴だってことをすっかり忘れてました。 しかもポーッとしてる父は疑いもせずに母について行き、母が、 「こんなに歩いたっけ?」と疑問を持ちだした時にも、 「そうじゃない?」などと答えたために、ますます事態はひどくなったという訳でした。 この時点で既に一時間ほど経過。 来た道を下りた、という母の話に、車で登ってきた道を走って探しに向かった私は、その後さらに2時間近く走らされるはめに陥ったのでした。 母のカン違いは坂を下り始めたときからで、来た道を下っているつもりで実は別の道を下りていたという・・・。 今となっては笑い話ですが、その時は真剣に泣きそう、そして唖然、という京都の思い出なのでした。 ▲
by cygne73_76
| 2005-04-10 19:36
| 記憶に残る街
2005年 04月 10日
angelparteさんの小栗左多里 『ダーリンの頭ン中』にTBさせていただきました。
本屋を数件まわっても全然売ってなかったこの本。 入荷待ち状態だったようです。すごい人気?トニー(笑)。 一週間前ようやく発見して読みました(今日まで放っちゃったのですが・・・)。 ちなみに購入した書店では売れ筋ランク10位だった。 この本の前に、同じ著者の「ダーリンは外国人」1・2を読んでかなりハマリました。 著者・小栗左多里さんとそのご主人であるトニーさんの日常が面白い! 大笑いしつつ、普段全く気にせず使ってる日本語や日本人気質について、あらためて考えたりして。 今作では二人のエピソードの中でも語学に的を絞って書かれていて、これまた興味深い。 angelparteさんの記事で、 「普段話している日本語にも実はいろんな発音があったというのは嬉しい発見」 と書かれていたのですが、同感ですねー。 例えば同じ「ん」でも、次に続く言葉で舌の位置が違うという(「はんのう」と「はんこ」とか)。 意識したこともなかったけど、これって外国の方からすると発音が難しいってことになったりするのかな? あと学生時代に英語で習った、Vの発音は下唇を噛む、なんて無理でしょう!と思ってたので、そういうことについて書かれてたのも面白かったなぁ。 第2言語を使いこなすのは決して易しくはないけれど、言葉って面白いな、もっと知りたいなと思えました。 これを機に始めてみますか、語学!(三日坊主にならなきゃいいが・・・) ▲
by cygne73_76
| 2005-04-10 02:39
| 読書のキロク
2005年 04月 10日
ショック死しなくて良かった。
いったいどの時点で死者が出たのだろうとビクビクしながら見ましたが、なんとか無事でした。 でも正視に堪えない部分は確かにあった。 キリスト最後の一日。 私は、運命を受け入れたキリストが粛々と丘を登り、静かに十字架の上で息絶える、という光景を思い描いていたのだが、そんなものではなかった。 十字架にかけられる前に半死状態まで鞭打たれ、あざけりの言葉をなげかけられ、血まみれのままさらに十字架を背負って丘を登る。 その間にもひっきりなしに打たれ、よろけ、倒れ、ようやく登りきったところで、十字架に釘で打ち付けられるのだ。生半可な苦しみではない。 しかももし本当にキリストが預言者であり、自分の身に起こることを事前に知っていたとするなら、肉体的苦痛だけでなく、精神的苦痛と恐怖はどれほどのものだっただろう。 この映画は、捕らわれる前、神に祈りつつ怯え、苦悩する姿も描いている。 人間としてのイエス、非力な一人の人間の姿がそこにはある。 人は、数を頼んでどこまでも残酷に、非道になれるものだ。 イエスを死に追いやる人々。 自分とは異なる人種、異なる考えを排除しようとする姿は醜悪だ。 現代にもこれと同じことが起きているのかもしれない。 十字架からおろされたイエスをその腕に受けとめた聖母マリアの表情が印象的。 宗教画で見るような慈愛や、哀しみの顔ではない。 “無”の顔。虚無感。子を失った母の絶望。 どこかで見た顔だ。テロの現場で。戦場となった国で。 理由なく命が奪われていく、そんな現実と、それを許容する人間の醜さを暴き出す作品だと感じた。 ▲
by cygne73_76
| 2005-04-10 01:49
| 映画のキロク
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